#24 アダムとイブの原罪と現在
アダムとイヴ~
ここでは#22 の最後に触れたイヴ(エヴァ)から、アダムとイヴについての原罪と、エデンの園について語ります。
イヴは現代の聖書で、聖書で善悪の木の実を食べた女性として、最初の方に言及されている女性であるようです。
それゆえ世界中の人々が、この記録や印象だけで、アダムを男神とイヴを女神だとみなし、人類の最祖先だと見ていたのです。
そして、どれだけの人々が、これが ‟わたし‟であり、女神だと思われてきたことでしょうか。―恐らく全世界でしょう。
しかしこれこそが、人間の未熟さや愚かさや無知ゆえに「原罪」を女神のせいにして、罪を平気で犯してしまう罪つくりや卑怯さなのです。
ちなみに私はキリスト教徒ではないので、聖書を熱心に読んだこともなく、また聖書の本さえ持っていませんし、この頃まで目を通したこともありませんでした。
しかし私は、この真実を知っているのです。
現代に伝わる一般的に普及している概念によると、人類最初の祖先は彼らとされ、そのため、全ての生まれたものはその子孫であると考えられいます....
創世記3章
16「 つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
これは、聖書の漢字が違うのです。日本語の発音は同音でも意味は全くの別のものとなる。それゆえ、このように正しく書き改め記さねばならない。
エホバ神は、人をつくったつもりで彼らも人と呼ばれたが、彼らが原罪を犯したことによって、人が獣へと、成り下がってしまったのです。
わたしはあなたの膿み(ウミ)の苦しみを大いに増す。なぜなら彼女は傷口から出た死んだものの集まりの全ての膿の母だからだ。こうして、膿みの母から地上に獣が産まれた。
全ての産み(ウミ)の始まりは女神。
全ての膿み(ウミ)の始まりはイヴ。
禁断の果実の真相~
旧約聖書では、ヤハウェなる主なる神がアダムとエバが禁じられていた「知恵の樹の実」を食べたことを咎め、彼らをエデンの園から追放したことが記されています。
ここでの「樹(木)の実」とは性に対する「禁断の果実」を示すのものであり、それは一般的定義にもあるように、不法・不道徳・不義に基づく、性の快楽や耽溺や堕罪を示します。
それは人間の内なる性衝動の欲望や強欲さ、目の欲から来る肉の欲、それはまた、女性からのそそのかしといった誘惑や魅惑の性対象でもあります。
Who ever = 誰でもいい
Wher ever = どこでもいい
What ever = なんでもいい
エバ\エヴァ\イヴ\イブ(英: Eve に由来する)
これが、everの振動。
この「禁断の果実」とは、欲しいと思っても手にすることは禁じられていることに手を出してしまう、道徳違反の戒破りや掟破りを示す。
蛇のそそのかしに負けたイブ(女性)は蛇のせいだと責任転嫁し、イヴにそそのかされて共犯となったアダム(男性)はイヴのせいにして互いに自己弁護をします....
汝ら原罪と現在を振り返れ。
この場面では、自分の犯した罪を他人になすりつけて言い逃れをしょうとする、人間の無責任さや女女しさが描かれています。-これが女々しいの語源。
いずれにしても、彼らは「知恵の木」の神の聖典や掟に逆らって「禁断の果実という木の実」を食べてしまったのです。
蛇は女性に、木の果実を食べても死なないことを告げた。「あなたが食べると、あなたの目は開き、善悪を知って神のようになれる。」
それは神がしてはならないよ、といった「言葉」を試してしまったのです... 原罪の試食(シショク)は死食(シショク)。
しかし、この木の実を食べさせたイブは善悪を知らぬ女となり、アダムはその塵を喰らうところとなった。
これが原罪による霊死と、神との繋がりの分離と絶え間ない地上の膿みの苦しみの、始まりから終わりであった。
彼だけを責めるべきでは無いにしろ、はからずとも、彼らの名は、原罪の代名詞のようになってしまいました。
現代の一般的な解釈では、禁断の果実を口にすると、彼らは急に裸を恥ずかしいと感じるようになり、アダムとイブは局部をイチジクの葉で隠すようになったという。
しかし、#12でも指摘したように、これらの解釈も微妙に歪んでいるようです。
この場面を正確に伝えるなら、羞恥心が完全に欠落した不道徳な様が神に見つかったことで、彼らは慌ててその場の葉で覆ったのです。
彼らは性に開放的になり過ぎて堕落して純真さを失ない、禁断の果実に手を出し罪を犯したために無垢は失われ不浄となったのです。
「原罪」とはまた、総じて神に対する背反や反抗とも言えます。
「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり塵(ちり)を食らえ。…」
この文言から、神がどれだけ激怒していたことかわかるでしょう。これは神ヤハウェの言葉です。
そして「主なる神は、彼らが命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放した」。
だから神は、真っ裸の彼らに対して服を着ろと言って、衣を与えてから追放したのです。
…つまり、主なる神は、創世記からアダムとイブの行いを良しとせず、彼らをエデンから追放したわけです。
ここで言う「そそのかした蛇」とは女性男性限らず、悪魔サタンをも意味しています。
全人類がこのサタンの悪巧みや誘惑にそそのかされ、罪を犯したためにエデンという名の地上天国は失われたのです。
ですからここでいう「エホバ神」とは、当然、このアダムとイブではないのです。
そうして主なる神は、命の木に至る道を守る為に、エデンの園の東にケルビムを置かれた。
原罪(ゲンザイ)と現在(ゲンザイ)まで続く呪い~
しかし、エデンを追放された彼らとその子孫たちは地上に膿を広げ、やがて地を覆い這う堕天した蛇の子らとなって人々を次々と噛んでいきました。
彼らの犯した原罪はまたたく間に世に広がり、この地に堕ちた毒蛇に人類は飲み込まれ、すべての地は呪われた。
エデンの園の門は閉ざされ、時代と共に神の教義や男女の健全な在り方や家族は破壊されていきました。
神も人もどんどん次元を下降させられ、高次元からこの低次元に留められました。
現在に至るまでアメリカにも多くの言葉や単語に呪いがかかっています….
例. Have you ever ~ ?(今までに~したことがありますか?)
呪文解読 Have you eve r~ ?
神の目 持っていますか あなた エバの~?
神の訳 あなたはエバ (=原罪) を持っていますか?
例えば、neverは、N eve r で 決して~....となる、これは、eveを決してしたことが無い、つまり、この質問は、“原罪をそそのかしたことが決してないですか?”―と言っているのです。
Have you ever ~ ?
Never?-イエス、アイ アム キリスト。
しかし現代に至るカトリック教会では、このアダムとEVEを古くからの伝統に従って聖人としていました。
やはりここでもキリスト教は、罪人を聖人と据え、神ではなくサタンを崇拝をさせ、誤った概念と歴史を人々の耳に吹き込んでいたということが分かります。
ユダヤ教の概念においては、アダムとエバ(イヴ)は全人類の祖とみなされてはいません。
アダムはあくまでも悪のユダヤ人の祖や象徴とも言え、人類は魂に命の息を吹き入れられていない、つまり本当の理性を持たない人でありゴイムとされています。
乱交・近親相姦・小児性愛・殺人・千人斬り、売春、男色、同性愛・浮気・不倫・火遊び・一夜の情事…
このようなそそのかしをする者、またこのような情事に誘い誘われる男女は、醜悪な中身に美しい皮を被って人をそそのかすまさに蛇の姿です。
それはまた、エデンを追放されたアダムやイヴの似姿であり、理性を失った下半身ゴイムたちなのです。
世界経済フォーラム、悪魔の”ダボス会議”の設立者であるクラウス・シュワブ、またヘンリー・キッシンジャーなどは、現代で代表される史上最悪の悪のユダヤ人ゴイムと言えます。
人か獣かサタンか~
彼らの策略や堕落行為は周囲にも感染し、現代でも腐敗した政治家や億万長者やトップ企業家や芸能人から一般庶民に至るまで、多くの人々が禁断の実に手を出し堕落しました。
それは「愛」ではなく、欲情や金欲や色欲や性欲や強欲に基づく結びつきであり、下半身の性器の衝動による腐敗した肉欲の惰性関係です。
この「快楽」に落ちて堕落していくものは、次第に人間ではなく獣となり、獣たちが生み出すものは、善ではなく悪となり、これは逆五芒星サタンの業(行)です。
マリアを表すラテン語のアヴェAveを反転させるとエバevAとなる。
わたしは堕落していない女性AveMariaであって、堕落した女性イヴEveではありません。
女神の星は正常、魔女の星は逆五芒星。
親日ピースの「ブイ」を反転させると反日裏ピースの「イブ」となる。
彼らの悪魔の霊は獣の動物霊となり、このような人々はサタンに力や支配権や財産を与え、悪魔の世を創造することに貢献していたのです。
サタンの仕業と情事に及ぶ人間たちが、健全な家族や社会など創造できるはずがないのです。
こうして人間は生まれながらの輝かしい生命の進歩と発展から遠ざかり、永遠にサタンの奴隷となるのです。
罪を犯せば犯すほど、神から離れ生命の輝きと目は曇り、霊の目は閉じられていく…
罪を重ねながらいくら子を生み増やしても、妻や夫や子から苦と嘆きの報いを受け、不幸な結末となる。
なぜエデンの園が失われたのか、どれだけ人類が堕落してきたのか、なぜ今このような世界になっているのか、
主なる神のせいではないことがお分かりいただけただろうか。
また世界中の人々がキリスト教における「贖罪」についての概念も誤って捉えています。
キリスト教における「贖罪」の教義は、息子イエスが十字架にかけられて犠牲となり死したことにより、人々を「原罪」から開放して救ったというものです。
それによって、まるで息子イエスが全ての人の罪を代わりに償ってくれた、救済者や輝かしい英雄かのように吹聴され認識されています。
しかしそれは、人間がアダムとイブの頃から背負っていた人類の罪を赦すためではなく、許さないためです。
未だ回心のない者と666の獣たち、そして後世のためにまずはここで軽く釘を刺しておきます。
失楽園とは、不純で無秩序で節操がなく、汚れた性愛で緩い世界なのです。それが低次元です。
エデンの園とは、純粋で秩序と節操があり、美しい聖愛と厳格な世界なのです。これが高次元です。
エデンの智天使とオリーブの木~
私はこの最も乱れ堕落した性に緩く開放的な風潮の中においても”操(ミサオ)”を守ってきたのです、神の”みさを”守る者。
”掟や戒”を守り、一対一の夫婦間で持続的な愛を深め高め合う。原罪など存在しなかった世界、それがエデンの園であったのです。
遠い昔のエデンの園の女主人として、私は神の青写真を一人で保持してきました。
この主が置かれたケルビム(ケルブ)とは、当時第二位に位置づけられていた智(ソフィア)天使のことを指します。
原初の当時の概念では、男性を立てて第一の位に男性を、第二の位に女性とし、最高の位の天使界に座していました。
それは、聖書編入から除外されたというヤハウェの神アシェラのことなのです。
ところで、現代で伝えられている仏教の六道の修羅道では、戦いや嫉妬が特徴とされていますがそうでは無い。
阿修羅(アシュラ、あすら、梵, 巴: asura)は、八部衆または二十八部衆(中国では二十八天)に属する、仏教の守護神。ご利益は武勇を得る事と仏法守護とされている。
なぜ、この仏像には手が6本あったのか、3翔け18。
仏教におけるこの阿修羅(アシュラ)がいる世界とは、常に戦いに勝利し、女女の漢字の嫉妬の無い空間、天道における天界の最高層です。
私たちは原初から純愛によって結びついていました。
霊的に死んだ状態から、霊的に生きた状態に戻るための道は一つしかありません。
2021年10月25日「彼女は喜びで私の心を手探りし、飢えを熱心に唾液を垂らし、欲望の言葉をささやきました。確かに私は羽ばたくセラフィムを飛ばすことができます、私の真紅のバレンタイン」~海
蛇を断ち、大蛇を切ってきた、かつてのセラフィム(熾天使)は、また原初の姿へと戻り、私の隣に並ぶでしょう。
ヨハネの黙示録4章
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」
そしてまた、私たちは地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
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