#26 石打ちと悪霊払い
姦淫の女の真相~
マグダラのマリアといえば、世の中では姦淫を犯した罪深い聖女、といったイメージを連想させられています。
ここでは、その話に関連付けられる福音書の記録を抜き出し、何千年も前の真実について語り、ここで世論と人々から悪霊を払っていきたいと思います。
この場面において、完全ではなくとも非常に高い読解力と鋭い考察をしていたネット民がいましたので、部分的に真実に即した解釈を【解説】として一部抜粋し掲載させていただきます。
まず、日本の湯沢聖書バプテスト教会の斉藤和彦氏に祝福を贈りたい。
また、「姦淫に捕らわれた女」について斎藤氏と同様の見解を主張していた、米国のカルヴァン派の牧師であり神学者であった故人グレッグ・バーンセン氏にも祝福を贈ります。
ヨハネによる福音書の8章の真相~
1 「イエスはオリーブ山に行かれた。」
2 「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。」
【斎藤:解説】:この時、ユダヤ教の指導者たちが、キリストを罠にはめるために、姦淫の現場で捕らえられた女をひとり連れてやってきた(3節)。キリストは民衆に向かって説教していたので、この女は皆の面前でさらしものになる。また民衆が集まっていたので、キリストを罠にはめるには絶好の場所。民衆は良い宣伝マンにもなってくれる。
3「 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。」
【斎藤:解説】:3節の記述はどこか不自然である。姦淫が事実ならば男のほうも捕らえられることになるが、男はいない。それ以前に、姦淫罪を成立させるためには難しい要件があった。二人の証人がいて、二人が直接、姦淫の現場を目撃しなければ成立しなかった。男女が夜、部屋に入るのを見た程度では成立しない。「キリストを訴える口実を作るために男を使って意図的に姦淫罪を成立させた可能性もある。この女は今、キリストを罠にはめる格好の道具とされてしまっているということである。
【グレック:解説】キリストは、ヨハネ8:7において、モーセ律法はごく細部に至るまで完全に遵守されなければならないことを示されました。姦淫を犯したとされる女をイエスの前に連れてきたパリサイ人達の関心は、神の道徳律法に基づいて社会の秩序が清く保たれることにあったのではなく、法律上のジレンマの中でイエスを罠に掛け、彼を陥れることにあったのです。
5 「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
【斎藤:解説】:彼らの質問は狡猾である。石打ちにすべきと答えても、石打ちにすべきではないと答えても、キリストを非難できた。石打ちだと答えた場合、ローマに対する反逆だと訴えることができた。反対に石打ちにすべきではないと答えれば、あなたは聖書の律法に背く者だ、ユダヤ議会の法廷で裁かれなければならないと訴えることができた。彼らの質問が罠であったことは6節前半ではっきり告げられている。
6 「 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」
【グレック:解説】彼等は、イエスに、旧約律法を支持するのか、それとも死刑を課すことの出来る唯一の権威であるロ-マ法に従うのかという選択を迫ることによって彼を罠にはめようとしたのでした。しかし、神の律法の知識に対する哀れむべき無知のゆえに、結局捕らえられてしまったのは、罠を仕掛けた当の律法学者達だったのです。
【斎藤:解説】:キリストの知恵はここで表される。この日が仮庵の祭りの8日目だとするならば、この日は安息日となる。この日は仕事をしてはならない日であった。この日は手紙二枚書くことさえ許されず、ただ地面に書くことは許されたという。ユダヤ人たちは「安息日は働いてはならない」という規定を独自に解釈し、手紙を書くことは仕事だけれども、地面に書くことはそうではないという陳腐な解釈をしていた。なぜか、キリストの地面に書くという行為が彼らにとってボディブローになったようである。
【斎藤:解説】:地面に書くという行為を読み解くために、エレミヤ17章13節を読もう。「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。『わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。』これをしたのは、今日の物語に登場する律法学者、パリサイ人たちである。キリストは「いのちの水の泉」である。彼らは自分たちは義に熱心だと自称していたが、その義はうわべのものにすぎず、彼らはいのちから遠かった。主キリストに背く彼ら自身が死に値する者たちなのである。
【斎藤:解説】:括弧内の前半に「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる」とある。このみことばが、「イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」を解く鍵となる。地に名前が記されるのは、天に名前が記されることとの対比であると思われる。すなわち、地に名前が記される人とは、神さまから離れ去ってしまった人たちで、裁かれる人たちということになる。ユダヤ教の指導者たちはキリストを拒むことにおいていのちの水の泉から断たれ、神さまから離れてしまっていた。
7 「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
【グレック:解説】:彼等はイエスを試みるためにやってきました。しかし、他のケースと同様に、律法を知らないのは彼等のほうであることが明らかになったのです。申命記17:7によれば、死刑が適用されるような大きな犯罪を取り扱うに際して、告発者である証人は問題となっている罪に関して全く潔白でなければならず、また、死刑の執行に際しては、まず彼等が手を下し、最初に石を投げなければなりませんでした。
【斎藤:解説】:ユダヤ人指導者はキリストを告発しようとしたが(6節)、反対に告発されてしまった可能性が高い。彼らはギクッとしながらも、なお問い続けるが、キリストはとどめの一言を彼らに投げかける(7節)。キリストはそう言われると、また地面に書く行為をされる。彼らにプレッシャーがかかる行為でことばを挟んでいる。
8 「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。」
【斎藤:解説】:「彼らはそれを聞くと、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行き、イエスひとりが残された」(9節前半)。彼らはキリストの地面に書く行為とことばによって、観念した。
9「 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
【斎藤:解説】:初めは非難の矛先を姦淫の女とキリストに向け、キリストを罪に定めようとしていたが、今、彼らは罪に定められ、自分を振り返り、自分たちの罪を認めざるをえなかった。女に石を投げる者はひとりもいない。皆、キリストの前から立ち去ってしまう。
10 「そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 「女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
【グレック:解説】:女を告発した人々は、証人ではなかったし、姦淫の罪に関しても潔白ではなかったので、キリストは、彼女を解放し、それ以上罪を問うことをしなかったのです。律法は、告発された人々の権利を守り、刑の執行を決定する裁判が堅実で合法的に行われることを要求します。
さて、ここからは私が解説していきます。
―第三段階のマトリックスを突破する―
27「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」
28「 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
当時はこれらも「姦淫」と呼ばれていたのです....
現代で「情欲」とは性的な欲望という意味ですが、異性に対して情欲を抱くことは自然なもので、罪とは言えません。ですから、それについての寛容を解いたのです。
マリアは言いがかりをつけられ、罪を着せられそうになっていた事をイエスは見抜いただけでなく、彼は同時にマリアの心も見透かすことができたのです。
律法で裁くには証拠もなければなりませんが、証拠がなかったのです。
さらに当時の律法は、処女でない未婚女性・男女の不倫・男性同性愛は「姦淫」の重い罪として死刑が定められていました。
しかし、すでに述べたようにイシュアの妻マリアは処女で息子イエスを身ごもっているのですから、マリアが姦淫したというのは辻褄も合いません。
ですから、マグダラのマリアは潔白であったのです。
#22第二段階までは、イエスは当時の息子の名前であったということで話を進めてきましたが、ここからさらに第三段階に移行していきましょう。
上記で記録されているイエスとは、息子イエスではなく、父イシュアのことなのです。
イシュアは、若い頃のマグダラのマリアをこのようにして無実の私を助けてくれたのです。
当時キリストであった父は、女の内に罪がないことを見抜き、女を罪に定めなかったのです。
昔のような石打ちはなくなくなったものの、現代での石投げは、世間やデジタル上での非難や罵声や批判や野次へと変わっているだけです。
さて、またヨハネの8章に戻って後半を部分的に取り上げていきましょう。
イエスと聖霊にまつわる悪霊の真相~
46 「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。」
昔も今もさほど変わっていないでしょう。人々は、物質的な見る目がありながら真実を見出せる者は少なく、また、聞く耳がありながら私が真実を語っても信じるものは少なく、また私の言葉や真理に反発する者さえいる。
しかし私は、罪人にも盲人にも賢人にも凡人にも等しく機会を与え、見たいものには見させ、聞きたいものには聞かせている。
47 「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。
真実を嫌い拒み避けるものは皆、悪いことをしてきた者や闇の支族や悪魔の子だけです。そして神を嫌うのは、悪魔だけです。
48 「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。
ルカの福音書には、悪霊を追い出されたマグダラのマリアと記録がありますが、当時は、イエスでさえもこのように悪霊に取りつかれていると、悪いユダヤ人やパリサイ人や律法学者達から非難されたのです。
49 「イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。」
昔も今も、わたしは父を重んじています。しかし、あなた方は父を重んじていても、わたしを軽んじてきたし、軽んじていたでしょう。
父と私はひとつ、という意味が分かるだろうか。
52 「ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それなのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。」
私はわたしと神の言葉を忠実に守り、私がずっと生きてきたことは歴史が証明している。また私は自分が過去に誰であったかを知っている。
死してもなお、昔も今も私が永遠に生きていることが分かるでしょう。
さて、悪霊に取りつかれていたのは誰で、どのようなことであったのか。
23「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 」
誰もが神の言葉や記録から独自の解釈をします。
しかし、誰もが皆完全な意見でなくとも、聖霊に繋がっていた本物のクリスチャンは、神の不在時にも多くの真実を証言したり主張できる力を持っているのです。
24「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」マタイ12章
そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。
2「 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、」ルカ8章
ここで、マルコによる福音書16章も取り上げましょう。
9「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。」
16 「信じて洗礼バプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 」
17 「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」
そして皆さんは、今まさにこのようにして悪霊を追い出されているでしょう。そして聖霊の影響を受けてすでに新しい言葉を語っている。
ハロウィン起源と悪霊払い~
本日は2024年10月31日です。
現代のハロウィンといえば、アメリカの毎年恒例の民間行事のようになっており、バレンタイン・クリスマスと並んで、ポップな世界的三大行事のように流行っています。
キリスト教ではハロウィンは正式な祝祭ではないとしながらも、11月1日にキリスト教の聖人や殉教者を祝う日「万聖節」の前日の前夜祭日として導入されています。
しかしハロウィンは、元来キリスト教の行事でも米国起源でもありません。
元々原初のヨーロッパで異教徒扱いされて弾圧された、#10古代ケルトのドルイド人たちの宗教的行事「サウィン祭」が起源です。
ケルト族の1年の終わりは10月31日とし、この日は聖霊や先祖の霊を迎えると同時に、悪霊や魔女を追い出し、秋の収穫を祝っていました。
日本的な慣習に当てはめると、年末とお盆が同時に来るような日をイメージするとよいでしょう。
そもそもハロウィン起源の「サフィン祭」で火を焚いたり仮装した目的は、悪霊を驚かせて追い払うためにしていたのです。
しかし、ハロウィンは今では元来の目的からは逸脱し、現代では狂ったようにパリピが騒ぎ立て、毎年銃による事件や人命も失われています。
また、ハロウィンには生贄儀式に連れてこられた子供たちが、熱湯鍋に入っているリンゴをくわえられたら命を助けてもらえるチャンスが与えられるという、...恐ろしいアップルポンピングという悪魔のゲームが行われていたとか...
ここにも悪霊の影響を感じずにはいられません。
”お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ” というセリフは悪霊の言葉で、子供がただ飴をねだる世俗的行事となり、仮装はただのコスプレへと変わっています...
現代までに続くハロウィンは、原初の古ケルト人たちを弾圧した後、あらゆる異教徒をキリスト教に取り込むために、古ケルトの慣習を万聖節のイヴ(前夜)に無理矢理くっつけてここまで変形してきたのです。
ハロウィンの名前の由来は、キリスト教の万聖節の前夜祭(All Hallow's evening→Hallow's even→Hallowe'en)とされていますが、これも本当の起源ではありません。
「hallow」は「holy」(神聖な)と同じく古英語の「halig」を語源とし、「主の祈り」の冒頭に使われているように「聖とする」(to make holy)
本当に聖霊と繋がっている本物のクリスチャンには、悪霊を追い払う力があなたの内に与えられているはずなのです。
キリストと本物のクリスチャンは、悪魔祓いをできるからこそクリスチャンなのです。
悪霊は悪霊を追い出すことはできません。
子供たちを悪霊から守れ、holy、holy、神聖なれ。
これが本当の悪魔祓いとハロウィン起源です。
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