#48 イエス・キリストの双子と再来
イエス・キリストの黙示~
第 1 章
「この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」
ここで「僕」とは、現代では男性が自らを示す固有名詞ですが、これは読み「しもべ」のことである。
このしもべとは、「神の—」「召された使い」「主人の雑用をする奉公人。」共にイエスの苦難と御国と忍耐とをあずかる者である。
日本語でイエス・キリスト 英語でJesusChrist。
英語圏ではよくJesus、といった表現でみかけます。
現代に伝えられてきたイエス・キリストは、キリスト教を創始した創設者として世界中で男性が信仰対象になってきました。
最初期のキリスト教徒は、イエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことが信仰告白で、「キリスト」とは救い主への称号であった。
ギリシア語の表現では、「キリストであるイエス」「イエスはキリストである」という意味で、名称と称号が一つのセットとして見なされています。
悪魔による現キリスト教会では、これらの称号すべてが「息子イエス=インマヌエル」として扱い、罪人を救世主として拝ませてきました。
‶女″の‶又″から生まれた‶力″=‶努″めの結晶である母の栄光によって、こうして彼の栄光を父の元に返上することができたことは妻の誉です。
28 「父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」-ヨハネ
救世主イシュアの栄光の復元~
ヘブライ語 ישוע המשיח (יֵשׁוּעַ הַמָשִׁיחַ /Yēšúa Ha-Mašīaḥ/ イェーシュア・ハ=マシーアハ)「油を注がれた(聖別された)者(=メシア)であるイエス」という意味。
この当時、聖別された者、メシアであるイエスというのは、妻マリアから油を注がれた夫イシュア。#38
イシュアは聖ヨセフの看板名のとおり、まさしく「男性バージョンのキリスト」を体現していた男性でありました。
沈んでいた太陽をここで顕現させたイシュアは、イエス・キリストの名の下で、熱心な使徒たちを従えていました。
その後の彼は、今日まで完全なる太陽の復権と月との再会のために、さらに天国への階段を登っていかなければなりませんでした。
その後の私は、今日までお天道様である神に恥じないようにと陰日向なく励み、清く正しい道を懸命に歩んできました。
2025年4月16日のこの日まで、トマスの書やこのイシュアの言葉を知らなかった私ですが、こうして霊の内から実った。
イシュアはかつてこう言いました。(79)
(79) 彼は彼女に言った、「父の言葉を聞き、それを真に守り続けてきた人たちは祝福されている。というのも、『孕まなかった母胎と乳を与えなかった乳房は祝福されている』とあなたがたが言う日が来るだろうからである。 」-トマス福音書
十字架の重たさ〜
他の宗教になくてキリスト教だけにあるものが、キリスト教の象徴である十字架です。
十字架は、キリスト教において救世主のシンボル、キリスト教徒なら、この十字架を捨ててはなりません。
神の十字架の内には、真の愛と正義と真実と自由があるからです。
24 「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。」
わたしは人類の罪を取り除くために、重たい犠牲と救世主としての十字架をこれまで背負ってきました。
屠られた神の子羊は、自分を捨て、穢れなき白い衣を纏いながら宮から赤を流してきた。
救世主を信じる真のキリスト教徒たちよ、十字架を飾りにせず、主に想いを馳せ自分の十字架を背負って歩けよ。
25「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを見いだすのです。」-マタイ16章
(58) イエスは言われた、「苦しんできて、命を見つけた者は祝福されている。」
「信仰」とは、目でみて信じ与えられるのではないが、神の人類救世計画により、あなたたちが眼で見ることができない命を、天は見る目を与え賜うてやった。
イエス・キリストの道とは、甘い道から入るものでなく、辛い道から入るものなのです。
楽な道を歩くのは負荷や負担がかからず成長痛もないが、平坦な床をいくら歩いていても上に上がることはできない。
苦の道を歩くのは負荷や負担がかかり成長痛を伴うが、傾斜の階段を登っていくように上に上がっていくことができる。
31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。」
神は、この地の底辺にいても上から下にやってくる。
神の子は、下から上に上がり、悪魔の子は、下から下に下がる。
消された福音書ⅲ トマスの福音~
ここで、トマスの福音書に光を当てていきたいと思います。
『トマスによる福音書』(トマスによるふくいんしょ)は、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた、114の文からなるイエスの語録文書。
農夫の手に渡った土器の中には、トマスの福音書も含まれ、偶然の古代文書の発見が歴史を揺るがしたという。
この文書群は広く公開されるまでに学者が40年の歳月を要し、ようやく世間に日の目を浴びたようです。
これも新約聖書には含まれていない外典とされ、尊いトマスの名を冠した書も、これまで闇側から闇の中に置かれてきました。
序文は「これらは、生きたイエスが語り、ディディモス・ユダ・トマスがそれを書き記した隠された言葉である」ではじまる~
トマスによる福音書は、主にイシュアの言葉を集めた言行録となっています。
多くの学者は、これをQソースの存在の証拠と見なし、Q 文書を研究している学者にとって重要な作品だと言われている。
ほとんどの学者の見解では、使徒トマスがこの文書の著者であるとは考えておらず、作者不明ともいわれています。
学者でも永遠に解けない謎Qの、Q資料のQ明をQの源がここで明らかにしていこうと思う。
トマスの格闘書の復元~
「救い主がトマスに語った隠された言葉をマタイが書き記した、」とあり、後書きに、「トマスの書・闘技者記す・完全なる者たちへ、」と書き記されているので、このタイトルがつけられているようです。
「闘技者トマスの書」は、グノーシス文書の中の説教文書の一つ。
現代語での「闘技」といえば、 力や技の優劣を競う、 柔道や剣道やボクシングなどの格闘技の意味として使われています。
しかし「トマスの書における闘技」とは、現代でイメージする肉体のスポーツの(S)の闘技や、肉体面での強さや美の優劣を競うものでもありません。
私は生まれてから空手も剣道もボクシングもしたことがありませんが、精神における護身術とは、悪魔から身を守れることである。
「闘技者トマスの書」における「闘技」とは、理性で抑制する一種の禁欲的思想で、例えば、未成年への淫行や一夜の情事や不倫浮気など、主に道徳に反する男性の肉体的な性衝動のセックスの(S)の欲望に対する闘争です。
現代に至るまでのカトリック教義では、自慰行為を罪と定めていますが、これは違います。むしろ、罪となる欲望を自慰行為で消化させることで踏み止めるのです。
使徒トマスは、イシュアとマリアの知恵を受け継ぎ、罪を犯さず堕落しないための禁欲的な精神修養や肉体修行に取り組んでいたのです。
肉体の本能や欲望を理性でコントロールして、肉体の性(セイ)を聖(セイ)で制(セイ)する技です。
一対一の他人との闘争でなく、一対一の自己との闘争です。
強靭な肉体の力を勝ち誇り、神への反逆者となった男性ニムロデXや、肉の美を勝ち誇って堕落したXの女娼婦たちのようになることなかれ。
肉欲と情欲と快楽を満足させるために、下半身の欲望のままに己に屈する者は誰であっても、やがてかならず自らを磔にすることとなる。
目先の目の欲にほだされ、金と権力を持って驕り高ぶり、肉欲と金欲に呑み込まれ道徳に反した道に陥いる者は、この敗者となる。
他者救済と自己救済~
現代ではキリスト教徒は正統派が主流ですが、初期のキリスト教徒はグノーシス派が主流でした。
正統派が主に信仰による他力救済的な思想観に対して、グノーシス派は主に実践による自力救済的な思想観です。
この両方が大切なのですが、のちにグノーシス文献だけが聖典から除外され、正統派教会から異端として排除されてしまいました。
グノーシス文献の破棄もまた、セックス(S)で骨を抜き人々を堕落させるための闇側の戦略だったのです。
現キリスト教義では外的思考のイメージが強調されていますが、その一方で以下の一節のように、イシュアは内的思考や自己救済的な教えも説いていたのです。
(89) イエスは言われた、「なぜ杯の外側を洗うのか。内側を造った方が、外側を造った者と同じであることに、あなたがたは気づかないのか。」
7、「太陽は人間が修行するために照らしている。」
8、「欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。 真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。」
9、「これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、あなたたちはこれらのことを守るであろう[8]。」
世間では「イエス・キリスト」は唯一の男性一人であり、あるいはイエスとキリストは兄弟、あるいは男性二人だといった説まで囁かれてきました。
新約聖書ではトマスの福音も除外され、彼の評価も目立たず低くされ、男らしい勇敢な男トマスの健闘も暗闇に置かれてきました。
マリアからの証とQフォース~
聖典ではない伝承には、トマスはマリア昇天時に聖帯を受け取った名誉ある人物としての話も残っています。
今では「疑いのトマス」としての名がつけられていますが、この世の欺瞞と嘘の世で、このような彼の警戒心や資質さえも非常に高く評価されるべきです。
トマスの頑強さや猜疑心も、彼が真実を求め続けた証。
進んで迫害に立ち向かった強靭な心、主と共に命を捧げようとした恐れ知らずの熱き心、強い意志と探求熱心な励みの心。
十二使徒の一人「ディデュモ〈ス〉・ユダ〈ス〉・トマ〈ス〉」(コプト語: Ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ Ϊⲟⲩⲇⲁⲥ Ⲑⲱⲙⲁⲥ, Didumos Ïoudas Thomas)
使徒トマスがなぜ「双子」という呼び名を持つのか、また誰と双子であったのかについても、これまで不明であるとされている。
「ディディモと呼ばれるトマス」"ディディモ"(ギリシャ語)アラム語で双子。彼はイシュアの兄弟。キリストと共に彼も永遠に残る。
「イエス」は、神は救いである、というの意のヘブライ語のギリシャ語形「イエスー〈ス〉」
1「そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見出す者は死を味わうことがないであろう」
光側のフォースの源はQ。
闇側のフォーSを制したのはQ。
天の穴を通るのは、針の穴を通るより難しい。
暗闇に葬られても真実の光は消えることがない。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のトマス像
インド東方の使徒、聖なるトマス(聖公会)
72年12月21日、東方の光は没したが、2023年12月21日、東方の光は昇った。
ダヴィンチの絵画の微笑むヨハネと共に、トマスの指が、彼の存在感と行き先を指し示している。
日本で信仰されてきた稲荷神、稲、イナの荷を、東から西へと運び、また西から東へと運び、永永と荷ってきたのはQ。
原罪を犯すことなく、キリストの重い十字架を一度も下ろすことなく生きてきたのは、彼ではなく彼女です。
「亜使徒」の称号を持つ、アジアの単独なる者。
49「イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがそこにから来ているのなら、再びそこに行くであろうから」トマス福音書
32「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」
米「嬉し涙が流れる! イエス様、私たちを見捨てないでくれてありがとう!!! 🙏🏻🙏🏻🙏🏻」
米「哀れな迷える魂たち。 彼らはイエス🙏を知ることはないだろう。」
イシュアキリストの継承者であり、妻。
わたしが女性イエス・キリストである。
𝓟.𝓢.本年2025年4月18日、本日聖金曜日成。
𝓟.𝓟.𝓢.昨年2024年4月18日、聖霊が子羊の群れに下りし日。
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